目白からの便り

「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず 2026年」

今週は、地下鉄のホームや歩道を行きかう人の中に、卒業式に参列するはかま姿やスーツに身を包んだ学生とすれ違うたびに、卒業と新しい門出を祝福したい気持ちに何度もなり、自分のほうが気持ちが高揚することが多くあった。先週の3月20日、少し小雨の中、学習院大学の卒業式も行われた。

4月3日には、同じキャンパスで入学式を迎える。卒業と入学——大学という場にとって、一年のうち最も“移り変わり”の色が濃くなる十数日の狭間に、都内の桜は不思議と歩調を合わせてくる。別れを見送り、出会いを迎えるその境い目に、花はいつもやさしい。

桜の季節になると、私の耳には決まってある詩句がよみがえる。

年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず
(唐・劉希夷「白頭を悲しむ翁に代わりて」)

京都・修学院離宮の近く、関西セミナーハウス。もう四十年も前、恩師 故中條毅先生(同志社大学名誉教授)が新入生に向けて語りかけたとき、私は大きな窓の近くに席を取り、差し込む春光の中でこの詩を聞いた。あの場の空気、先生の呼吸、言葉の間合いを、私の記憶は驚くほど細部まで覚えている。
「凡庸としていると、人の一生は思いのほか早く老いへ辿り着く。できることならば、起こる出来事のすべてを滋養として取り込み、しなやかな糧にしなさい」——先生は、そんな趣旨の言葉を静かに置いていかれた。若かった私は、その意味を半分も受け止めきれていなかったのだと思う。だが、先生の当時の年齢に自分が近づいたいま、「年年歳歳」の花の同一と、「歳歳年年」の人の非同一、その対照のやさしさと厳しさが少しだけ腑に落ちる。

詩の全文を開けば、

古人復た洛城の東に無く、今人還また対す落花の風、
年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず、
言を寄す全盛の紅顔の子、応に憐れむべし 半死の白頭翁

とある。桜は毎年変わらぬ姿で咲き、風に散る。しかし、その花を仰ぐ私たちは、同じではいられない。立つ場所も、背負う時間も、抱きしめる思いも、年ごとに変わっていく。だからこそ、春の光景は反復でありながら、いつも一度きりなのだ。

中條先生は、自叙伝『ウシホから産業関係学への道』で、戦時中に駆逐艦「潮(ウシオ/ウシホ)」に乗り組んだ経験から、産業関係学(Industrial Relations)へ歩を進め、生涯を貫いた研究の道程を振り返っている。

学生のころ、先生は学ぶ機会と実学の機会を惜しまず与えてくださった。とりわけ、京都労働文化研究会(労文研)の事務局で過ごした時間は、学問と社会が触れ合う接点を生身で学ぶ貴重な現場だった。あの場で吸い込んだ空気は、のちの職業観や人生観の原点として、私の中でひそやかに燃え続けている。

変わらずに、地道に、続けること——そこからしか開けない景色がある。どのような職業であれ、長く続けてきた者に宿る風格は、単なる知識の量を超えて、にじみ出る。移ろいやすい気持ちを見つめ直し、足元の仕事を良質に整え、一つを積み重ね、また一つを積み重ねる。その薄い層の集積こそが、やがて自分という木を内側から支える年輪になるのだと思う。

卒業式と入学式のあいだに咲き満ちる桜の下で、私は今年も恩師の生涯と詩の一節に向き合う。「花は相似たり、されど人は同じからず。」この静かな真理は、毎年のように繰り返し現れ、しかし毎年ちがう厚みで胸に沈む。桜は今年も美しい。だが、その美しさを見つめる私は、昨年と同じ私ではない。

今日、桜の花の下でそうつぶやくと、4月3日の新しい顔ぶれが目に浮かぶ。入学式の壇上から見る若い眼差しは、きっと今年も、春の光に負けない。——そしてその翌年には、また別の春がやって来るだろう。あなたの今年の桜は昨年の桜と色合いはどうであろうか。

今日一日が良い一日となりますように、悲しみと困難、不安に向き合っている方に希望がありますように。良い週末をお過ごしください。新しく始まる一週間が皆様にとって豊かな一週間でありますように。

2026年3月27日 

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