目白からの便り

守られている感覚とキャリアの価値 吉澤嘉代子さん『一角獣』の一節から

読売新聞の社会面に掲載されていた作家の朝井リョウさんの記事にふと目にした。普段なら見過ごしてしまうかもしれない紙面だったが、そのときは引き付けられ記事の文字を追った。そこには、朝井さんの言葉で、吉澤嘉代子さんの楽曲「一角獣」の歌詞が紹介されていた。

大学で行っているキャリアデザイン㈵の講座の中で、朝井さんの代表作でもある『何者』を原作とした映像教材を、講義プログラムの一部として組み込んでいる。就職活動という現代的なテーマを通じて、自己認識と他者評価のズレを描き出したこの作品は、物語のもつ心理的葛藤のもつ人間心理の複雑性だけでなく、学生たちにとってこれから向き合う「就活のリアル」を映像的に受け止め、その場面、場面の人事視点の講義解説が有効だと感じて、活用している。

こうした背景があったからか、記事の中の言葉にも自然と引き込まれた。私は、この時まで吉澤嘉代子さんという歌手にはほとんどなじみがなかった。この記事をきっかけに興味を持ち、聴き始める。楽曲に触れてみると、その印象は新鮮だった。柔らかで包み込まれるような余韻漂う声質に引き込まれるだけでなく、物語性のある歌詞と幻想的な広がり、奥行きのある空間に引きずり込まれる。

この「一角獣」の一節、「読みかけの本があるうちは守られている気がしてた」という言葉に朝井さんは、「自分も何かを書いているときに同じような感覚になる」と語っていた。本を読むという行為は、ただ知識や情報を得るためのものではない。読みかけの本が手元にあるとき、私たちはどこかで「戻れる空間」を持っている感覚に包まれるのだと。物語の続きがそこにあり、自分が入り込める空間がまだ閉じられていない。その状態そのものが、日常の不安や揺らぎから私たちをそっと守ってくれる。そして、朝井さんは、小説を書くこともまた同じだと語る。書いている最中、自分の内側にひとつの空間を持つことができるのだと。そこには自分なりの秩序があり、時間の流れがあり、外部とは異なるルールがあるのであろう。その空間に身を置いているあいだ、外界の評価や雑音から少し距離を取り、自分自身を保つことができる。つまり、「守られている感覚」は受動的な読書でありながら、能動的な創作の中にも宿る。

重要なのは、自分の内側に「戻れる空間」を持っているかどうかである。読みかけの本がある状態、書きかけの何かがある状態——そうした「続きがある」感覚を、自分のキャリアの中にも持てているかどうか。何かに没頭できる空間がある限り、人は完全に孤立することはない。自分のオリジナルな空間がある限り、他者からの不礼儀で横暴な浸食を食い止めることができる。グローバルスタンダードがというとらえどころがない概念が周囲を席巻して圧倒されそうになり、第三者的な評価軸や市場の価値観が強く意識されがちな昨今であるが、それをそのまま内面化してしまえば、自分の立ち位置は常に外に依存し、自分自身の存在観を自分自身で感じることができなくなる。

だから人は、自分の境界と立ち返るべき空間をもつことが必要なのだと思う。外の価値を理解しつつ、どこまでを受け入れ、どこから自分の空間として守るのか。茶道で使われる「結界」のようなこの線引きがある時、人は主体性を失わず、「立ち返るべき守られている空間」を内側からつくることができる。

キャリア理論では、キャリアの主導権を環境に依存せず自分の価値観に従って柔軟に変化させて言うことの大切さを伝えてくれるプロティアン・キャリア(Protean Career)という理論がある。キャリアの主導権は組織ではなく個人にあり、成功の基準は外的評価でなく内的な価値観に基づくべきだとこの理論の提唱者のD. Hall *1)は示す。

吉澤さんの歌詞、朝井さんの言葉、それらはすべて、「人は何によって自らを守るのか」という問いに、静かに共鳴している。キャリアとは単なる経歴ではなく、自分が立ち帰ることのできる空間を自らの内側に持つ営みなのであろう。そして、「続きがある」という感覚を持ち続けることこそが、変化の時代を生きる私たちにとって、最も確かな聖地となる。キャリアは長期戦であり、現役を引退したとしても、また、それが社会的、経済的に生産的でなくなったとしても持ち続ける「続きがある」状態にあることが自分らしさを保持ししていく上で大切なのだと思う。

今日一日が良い一日となりますように、悲しみと困難、不安に向き合っている方に希望がありますように。良い週末をお過ごしください。新しく始まる一週間が皆様にとって豊かな一週間でありますように。

2026年6月26日 

※吉澤嘉代子(よしざわ・かよこ):独自の世界観と詩的な歌詞で注目される日本のシンガーソングライター。ポップスを基盤にしながらも文学的な表現を取り入れた楽曲が特徴。

*1) Douglas T. Hall(ダグラス・ホール):米国の組織心理学者。「プロティアン・キャリア」を提唱。“プロティアン”とはギリシャ神話のプロテウスに由来し、状況に応じ自在に姿を変える存在を意味する。すなわちキャリアも固定的なものではなく、個人が主体的に変化させていくものと捉える考え方であり、外的評価ではなく内的な納得や価値観に基づく「心理的成功」を重視する点に特徴がある。

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