目白からの便り

迷える子羊 A Stray Sheep In The World 自ら感じて自ら動け

「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。」これは新約聖書マタイによる福音の18章11節の言葉である。私の書棚の中に一冊の雑誌がある。標題には『迷える子羊 A Stray Sheep In The World』(2001年11月1日発行)と記されている。私が社会人になって、最初のキャリアで強く影響を受けた方が書いた自伝である。

2021年6月11日に、その方は、多くの仲間から惜しまれこの世を去った。大学を卒業して、はじめての仕事を通じて指導受けた方でもあった。享年94歳。実家が長野市内の酒店であったこと、信州大学工学部の前身の長野高等工業学校を卒業され、当時の諏訪精工舎に入社された。実家の酒店は現在も長野県庁の近くで三代目の方に引き継がれている。体の自由が効くうちになんとしても訪問してみたい場所でもある。

私の最初の職場は、腕時計の製造工場だった。彼は人間味あふれる人柄で、腕時計のデザインや設計などのスタッフ職の方だけではなく、製造部門の多くの社員から慕われた。彼がよく口にしていた言葉は、「自ら感じて、自ら動け」であった。自分の考えを持ち、どのようにすれば実現できるか、誰と協業すれば道筋が描けるか、指示を待つのではなく主体的に行動することを常に示唆されていた。「どうしたらいいでしょうか」と言う言葉は彼の前では決して出すことができなかった。その言葉を発した途端に自分自身が、崖の下に落ちていくような感覚にとらえられた。

何か失敗した時でも、他責にする言動を最も嫌っていた。どのようにこれから取り組みその失敗を挽回するかの意思があるかが、彼の価値観では圧倒的に上位であった。「最終的な責任は僕が取るのだから、君らは挽回の為に今何をすべきかを考えることだ」と。すべての混乱と混沌の責任を自己に還流させてしまう彼の姿勢は、安心感よりも、彼をがっかりさせたくないという気持ちに駆立たせた。驚くほどの好結果で、彼が喜ぶ姿を見たいと思った。人事考課の評価で報われたいという企業組織の論理を超え、純粋にこの人を喜ばせたいという気持ちが勝る。

公平でない利己的な部下の言動を遠ざけ、何か失敗した時でも、他責にする言動を最も嫌っていた。私自身も制作していた会社案内の進捗報告の時に開放されている彼の執務室から居室中に響き渡る声で、強烈に叱責された経験を今でも覚えている。私は明らかにうまくいかない原因を他責にするような言い訳をしていた。今でもその自己保身的な言動を覚えている。「君は自分の考えでなく、他人の考えで行動するのか」。

彼から私への叱責は、明らかに物理的な集団には属していても人間的なあり方で道に迷いかけた私を群れに引き戻す彼の善意の試みであったのだと思う。前述の彼が晩年に書いた自伝の表題に込められた想いを夜が明けつつあるこのコラムを書きながら今更ながら気づく。

彼は華やかなスタープレイヤーを好まなかった。いつも社長室のドアが開いた状態であった。そこには相田みつをさんの言葉が額縁に入れられ掲げられていた。

「花を支える枝 枝を支える幹 幹を支える根 根はみえねんだなぁ」

社長室に入る社員が、その額縁を見ながら、自戒し、励まされていた。人材の育成はテクニカルな作業であるが、人物を育てると言う事とは、次元が違うことだと若いながらも痛烈に精神の奥底まで沈殿した。彼の様な非日常的な光景を自然体で演出する資質はどのような体験や学習から身に着けることができるのかということが理論を越えて人事屋としての関心事の一つとなった。命日となる日を前に忘却の中におぼろげになりつつある彼の所作のひとつ一つの記憶を懸命につなぎとめる時間としたい。

今日一日が良い一日となりますように、悲しみと困難、不安に向き合っている方に希望がありますように。良い週末をお過ごしください。新しく始まる一週間が皆様にとって豊かな一週間でありますように。

2024年6月7日  竹内上人

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