目白からの便り

広島、長崎にあった職業意識

『ここは御国を何百里、離れて遠き満州の赤い夕日に照らされて…』、戦友という軍歌の出だしである。幼少のころ祖父が添い寝をしてくれると必ず歌ってくれ、自然とこの一節だけ脳裏に沈殿しつづけ、ふとしたきっかけで覚醒する。祖父は終戦の8月、広島市内から近い場所にある陸軍通信施設で軍役に就いていた。原爆投下後、近隣部隊は市内に救援に向かい、すさまじい惨劇に向き合ったとのことである。

私は、この広島原爆直後の話を祖父から直接聞いたことがなかった。小学生の高学年の頃かと記憶があるが、一番年少の叔父から祖父が体験した当時の悲惨な広島市内の惨状を一度だけ聞いた。この叔父自身は、原爆投下後に生まれているので、自分は被爆二世だと語っていたことを今でも覚えている。両親からも聞いたことがなく、私自身も聞いてはいけないことだと思いそれ以降、その叔父にも再び話題を向けたことはない。

今週、80年前の広島の8月6日を迎えた。広島の原爆投下直後に起こった様々な物語の一つに路面電車の物語がある。広島市内を走る路面列車は原爆投下のわずか3日後、8月9日に多くの人の努力と、市民の期待を背負って市内を走った。この物語は「原爆に遭った少女の話」として、NHK広島放送局が被爆70年の2015年に「一番電車が走った」のタイトルでドラマ化された。

私がなぜこの物語に関心を持ち続けているかというと、原爆投下 3日後に荒廃した焼け野原で、生命の維持すら危うい状況下で、自らの職務を果たし続けようとした働き手の熱意の源泉はどこにあったのかという問いである。 会社の上司からの指示や方針もあったと思う。ただ混沌とした環境下で、その使命を果たそうとする働き手の意思と行動がなければ到底実現は出来ないことは容易に推測できる。しかも昭和20年、戦況が厳しくなる中、戦地に徴兵される男性職員に代わり実際にこの路面電車を運行していたのは運転手も車掌も市内の家政学校の女子学生であった。

同じように東日本大震災の発生時に宮城県南三陸町職員の遠藤未希さんのことも深く記憶に刻まれていることに気が付く。遠藤さんは、東日本大震災 発生時に持ち場である南三陸町防災対策庁舎において地域住民に対して防災無線で、「高台に避難して下さい」と呼びかけ続け、多くの人命を救った。そして、津波に襲われる最後の瞬間まで職務を全うし津波にのみこまれ殉職した。

人は労働の対価としての報酬に自分の労働力を提供するのだが、人間の心理として、報酬だけで働くわけでもないということを日常的に意識しなければならないと思う。明日8月9日、広島で路面電車が走ったその日、長崎に原爆が投下された。同じように制約された環境の中で職責を果たし続けた方がいたのであろう。過酷な環境にあって、危機に直面しつつも、高い職業意識を持ち続け、誠実に自らの職務に向き合う意識はどのように育まれるのであろうか。平和と命の大切さを尊く思うと同時に、自分の仕事に対する倫理観を振り返る一週間になる。

今日一日が良い一日となりますように、悲しみと困難、不安に向き合っている方に希望がありますように。良い週末をお過ごしください。新しく始まる一週間が皆様にとって豊かな一週間でありますように。

2025年8月8日 

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