鈴木貫太郎氏は1945年4月7日から8月17日まで第42代内閣総理大臣務めた人である。日本が終戦に向けてどのように米国をはじめとする各国との戦争終結の交渉をまとめ上げていくのか、対外的な交渉のみならず軍部との困難極まる対内的な調整を担って終戦にまで持ち込んだ人物であった。私の中では、映画「日本のいちばん長い日」でこの役を担った俳優の山崎努さんの印象が深い。
鈴木貫太郎氏は1868年1月18日に現在の大阪府堺市で生まれた。海軍兵学校を卒業しその後、海軍大学校で軍人としてのキャリアの基礎を築き上げた。日清戦争や日露戦争に従軍し、特に司馬遼太郎の小説の中にも登場する日本海海戦の中での水雷艇艦隊の司令官としての功績も大きい。その後、連合艦隊司令長官や海軍における最高意思決定機関である海軍軍令部長などの重責を担ってきた。また、1936年に陸軍の青年将校が起こした2.26事件では、侍従長として自宅で襲撃を受け、四発の銃弾を浴びながらも生命の危機を乗り越えている。
そして、年齢も77歳、喜寿の年で、終戦の後始末をつける総理大臣の職に任じられる。この老齢で総理大臣の重責を担った鈴木貫太郎氏の奥様は旧姓足立タカさんといい、現在のお茶の女子大学を卒業後、皇室にて昭和天皇の教育係を務めた。当時の昭和天皇にとっては心を許す存在であったのだろう。皇室で養育係として勤めながらも、彼女が敬虔なクリスチャンであったことも興味深い。このような関係性の中で鈴木貫太郎は日本が政治的にも経済的にも社会的にも混乱の極致にある状態の中で、終戦の総括を担う内閣総理大臣の職に就いたのである。この時期で内閣総理大臣の役割を担える人物は、自ら体験的に歴史の中枢を歩みながら経験を積み重ね、いくつかの極限の試練を乗り越え、年齢を積み重ねるにつれて謙虚さと私欲を消していく過程の人しかできない役割なのであろう。
こうした混乱期における社会秩序の正常化に向けての手段を発揮できるのは良質な経験を積み重ねたシニア人材だからこそではと思う。高齢化が進展する日本において、シニア人材の役割が問われてきているが、年齢に積み重ねられた豊富な経験に基づいた優れた価値を提供できる役割はまだまだ社会にとっても、企業組織においても必ずあるように思える。変革期の組織において、キャリアにおいて多くの刀傷を負ったシニア人材の経験値を肯定的にとらえ、活かしていくことについて考えてみたい。
今日一日が良い一日となりますように、悲しみと困難、不安に向き合っている方に希望がありますように。良い週末をお過ごしください。新しく始まる一週間が皆様にとって豊かな一週間でありますように。
2024年8月2日 竹内上人
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