目白からの便り

中小企業の人的資本経営について その7

副題:「場」のマネジメントが人的資本を最大化する 

上野にあるこの東京国立博物館を訪れてもう一つの気づきがあった。それは場所に関しての気づきである。明治維新後、1873年に日本で最初の公園として指定された上野恩賜公園のこのあたりには、東京国立博物館の他にも、国立西洋美術館、国立科学博物館、などの文化施設が集中して立地している。そして、この上野公園に接して東京芸術大学がある。かれら芸術を学ぶ学生にとって距離的に隣接したこうした文化施設で、先達たちが残した偉業を気軽に触れることは、自己の芸術的な意識を喚起してきているのであろう。物理的な場所の組み合わせは、創造的な機会の創出に極めて重要だと思う。組織において、人々が組織の目標に向かって有効性のある協同的な行動を起こすために、あるいは起こしやすい環境を意図的にまた、計画的に設計することはマネジメントの重要な視点である。(伊丹, 1992)

情報のルートが効率的に交差し、関係者が共振するような場をいかに作り出すことができるかは、イノベーションのみならず、組織の生産性と共同性に有効につながっていくのであろう。経営者は、会社の組織変更に際して組織図の設計に苦心するが、それだけであると片手落ちである。それぞれの組織がどこにあり、どのように配置されているかも含めて、組織図を凝視することが求められる。組織設計責任者が、組織図の機能と人の配置と組み合わせの妙、そして場所的なレイアウトを総合的に考察しながら、組織設計を行うことができれば、自ら立案した経営戦略の実現性の確率は一層高まることになる。また、企業活動だけでなく個人一人、ひとりにとっても日常の空間を自らの価値を高める地理的な場所に意図的に接近させることは、効率的なだけでなく、将来の人生において、創造性の萌芽を飛躍的に促す環境をもたらす。

(事例)「場」のマネジメント:腕時計の工場レイアウト

私の前職での最初の職場は腕時計の製造工場であった。その工場の建物には、人と人との接触を通じて、コミュニケーションを向上させ、問題を解決させるための様々な工夫が施されていた。私の記憶の中に鮮明に思い出される光景がある。その工場の構造は特徴的であった。腕時計の組み立てラインは建物の1階にあり、2階に設計や技術の居室で間仕切りがない天井が低い体育館のような空間であった。私が所属した総務部の機能もそこに配置されている。ある時、外装組立職場の作業長が、険しい顔つきで、2階にある設計部門の若手設計者に詰め寄っていた。当時は、まだCADのシステムがなく、設計図面は手書きであった。図面を描くドラフターに張り付けられた図面を覗き込みながら、その作業長は設計者に熱っぽく語っていた。以前にも遭遇した光景であったので、どのような会話をしているかは容易に想像ができた。現場の作業長がモノづくりの視点で、設計者に図面の変更の助言をしているのである。このリアリティあるコミュニケーションの場は、オンラインの効率性を凌駕するのであろう。そうした光景を肌で感じる中で、人事担当である私自身も技術者の採用において、単に優れた技術的な経験や潜在的な能力があるかどうかだけでなく、仕事に向き合う基本姿勢の中に、自説を固持せず様々なモノづくりのバリューチェーンに携わる人たちとのコミュニケーションを大切にできる価値観を所持しているかどうかを採用基準として意識するようになった。

設計者はモノづくりの全プロセスを想像しながら自己のキャリアを向上させ、後工程の製造を担う人たちの息遣いを感じながら、卓越した技術者へと成長していく。設計品質を考える時、それは単に製品仕様の優劣のみならず、Q(品質)C(コスト)D(生産効率性)の総合的な視点で図面を描ける技量が磨かれていくのである。設計もやはり総合芸術である。こうしたヒトを媒介とした技術改良や革新は同じ事業所内だけでなく事業所や事業部を超えたヒトの異動や共同作業によっても促進される(藤原,2004)。ヒトは経営資本を飛躍的に変革させる媒体機能も有するのである。更に加えると、日常的な職場での協同的な連続的な体験、それは一同に会する食堂、今風に言えばカフェテリアのテーブルをはさんでの会話であったり、食事後の早指し将棋や卓球であったりする。現在は絶滅しかかっている社内運動会や泊りがけの職場旅行でもある。生活形態の多様化から制約条件が多くなってきていることも致し方がないことでもあるが、組織における人と人との交流の場を業務における官僚的に秩序立てられたフォーマルな組織だけでなく、人間的な関係を基礎にしたインフォーマルな組織の有効性を意図的・計画的に活用することも大切な人的資本経営の選択肢であると思う。

こうした人々が日常的に交流する機会の最大化によって、職務定義書を超え人間が本来持っている能力を集団として最大化する環境に転換できるのである。人的資本価値の最大化を希求するならば、リモートワークの展開に伴う働く環境の個別最適化適応の利便性も尊重しつつ、その補完機能について、経営者や人事担当者はどのような合意形成をとるべきか、面倒がらずに苦心した方がよい。確実に組織に対するエンゲージメントは強固になる。

今日一日が良い一日となりますように、悲しみと困難、不安に向き合っている方に希望がありますように。良い週末をお過ごしください。新しく始まる一週間が皆様にとって豊かな一週間でありますように。

2024年3月29日  竹内上人

※現在連載中のコラムは、今年3月に発行された中部産業連盟機関紙『プログレス』寄稿文の原文

(今回のコラム全編での参考文献)
その7
伊丹敬之 場のマネジメント序説 組織科学 1992 年 26 巻 1 号 p. 78-88
藤原雅俊『生産技術の事業間転用による事業内技術転換』(日本経営学会誌)2022年

その1からその6までの参考文献
石田光男『仕事の社会科学』(ミネルヴァ書房)2003年
今野浩一郎『同一労働同一賃金を活かす人事管理』(日本経済新聞出版)2021年
竹内倫和『自律的キャリア形成態度と職務探索行動結果に関する因果モデル』(商学集志)2020年
江夏幾多郎 『人事評価やその公正性が時間展望に与える影響:個人特性の変動性についての経験的検討』組織科学 V ol.56 No. 1 : 33-48 (2022年)
守島基博『全員戦力化 戦略人材不足と組織力開発 』(日本経済新聞出版)2021年
城山三郎『官僚たちの夏』(新潮社、1975年)。
伊丹敬之『イノベーションを興す』(日本経済新聞出版社 2009年)
米山 茂美『リ・イノベーション視点転換の経営: 知識・資源の再起動』(日経BP日本経済新聞出版本部)2020年

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