目白からの便り

適切な寄り道が技能形成と人づくりの重要な要素となる

妻と電子辞書の話題になったことがある。昔は様々なメーカーが電子辞書を発売していたが、現在は、スマートフォンに吸収されて継続している会社も少なくなった。英語教員の彼女の評価は、かつて私が所属していたグループ会社の電子辞書がもっとも優れていたとのこと。残念ながら現在は、その生産を終了している。

 

ある時、友人と雑談でちょうど辞書の話になり、昔私たちが学生だった頃、紙の辞書を引いて勉強したという話になった。私は研究社の「新英和中辞典」であった。50年もたっているが、今も処分されずに本棚に引退選手の様に静かにたたずんでいる。緑色のハードカバーがあったかと思うが、それはすでになく、深い茶色のビニール製の表紙に覆われている辞書である。

 

学生当時、時々引くべき単語に行き着くまでに、その近くにある関係のない単語に興味を惹かれて、辞書のページをめくっていたことを共通体験として懐かしがった。何の単語を引くためにこの辞書を開いたのかを忘却することもあった。辞書の寄り道は、たいていの場合、試験前の現実逃避としての行動であり、貴重な時間を無駄な寄り道によって費やしてしまった後悔を繰り返す。引いた箇所には、赤鉛筆や蛍光マーカーなどで印がつけられ、時々、書き込みもされている。

 

人事屋として入社希望者の履歴書を数多く見てきた。また、社内の昇格昇進の面接の場面でも同様に職務経歴に触れてきた。キャリアにおいて、時々寄り道ともいえるような仕事の大ジャンプをしているケースがある。経歴として並べてみると、なぜ、どうしてこのような仕事に就いてしまったのかというケースに遭遇する。今までと全く異なる業界への転職や、短期間の中で仕事を転々と変わってしまい、結局、また馴染みのある仕事に戻っているケースも多い。当の本人は、それぞれに正当な理由や、やむにやまれない事情により選択をしてきていることも理解できる。しかしながら、その人の職務経験の流れの良質さが面接における力強い言葉に表れてくるので、経歴の流れのスジの良さは重要な要素でもある。私は、一見つじつまが合わなくなっているように見える経験の一つ一つを、物語として再構成できないかと相談者を支援する。多くの場合、自分で選択しているので、筋道の通ったキャリアの物語は再構成できることを経験上確信している。脚本のようだが、個々人のキャリアの脚本は極めて重要である。

 

雇用において日本の生産性の高さを「熟練」という卓越した技能形成プロセスとして評価をしてきた小池和男氏(「日本の熟練」1981)は、社内異動、ローテーションにより、類似する複数の仕事経験を通じて熟練度が高まり多能工化し、仕事における異常時の応用動作の優れた対処ができる労働者を育成できたことを私は評価している。これが日本の持ち味だと。しかも私が感じるところは、小池氏の出張する生産の現場における熟練形成にとどまらず、日本における育成の優れた点として、工場や販売の現場と事務部門との間においても同様に異動が行われていることも特筆した強みであると思う。「職能給」という賃金システムの効用を巧みに駆使し、欧米型の雇用形成と比較して得意な人材形成のシナリオ持っている日本の人的資源管理のメカニズムは、日本の企業競争力の源泉でもあった。私は、この仕組みの優れた卓越性のエッセンスを今後も日本企業が失わないことを願っている。ものづくりの現場を知り、販売の現場を知り抜いた人材の中から、その経験を活かして事務部門の仕事を担う人材を輩出させることは、現場で働く人々の親和性と共感性を得られるのみならず、事務部門、技術部門において現場から乖離しない極めて的確な判断ができる。人事や経理の専門家が一定期間、事業の現場を経験し、同様に営業や製造の専門家が管理部門の仕事を経験することは大切なのである。こうした人材形成によって肉厚のある技能と技術、人間性を身に付けた人材が継続的に生み出される。人づくりの日本モデルである。

 

英単語を調べる時のいくつかの単語の寄り道も、きっと意味ある寄り道になるに違いない。効率性とは反するが、深い時間の安定感と人格形成に有効なのだと思う。

 

今日一日が良い一日となりますように、悲しみと困難、不安に向き合っている方に希望がありますように。良い週末をお過ごしください。新しく始まる一週間が皆様にとって豊かな一週間でありますように。

 

2023年9月22日  竹内上人

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