松本にある自宅の書棚を整理していた折、ふと白洲次郎氏に関する一冊を手に取ったことが、今回のコラムを書くきっかけとなった。頁を繰るうちに、以前友人と訪れた東京都町田市の「武相荘」の空気がよみがえり、再びあの場所を思い起こしたのである。茅葺の母屋が残る古い農家で、武蔵と相模の境にちなむ名を持つその旧邸は、庭の小径や展示物を通じて、次郎・正子夫妻の暮らしぶりが静かに立ち上がる場所である。
白洲次郎氏は、戦後の混乱期に吉田茂の側近としてGHQとの折衝に立ち、「従順ならざる唯一の日本人」と評された人物である。英国ケンブリッジ大学で培った筋の通った英語と態度は、単なる語学力ではなく、彼自身の内側にある「原理・原則(Principle)」に裏打ちされていた。サンフランシスコ講和会議で首相演説を日本語で行うべきだと主張した逸話は、その象徴である。言語という細部にまで矜持を宿す姿勢は、リーダーが持つべき「価値基準の一貫性」を体現している。
リーダーシップ研究において、James MacGregor Burns が提唱した「トランスフォーメーショナル・リーダーシップ」は、リーダーが自らの価値観や倫理観を明確にし、それを行動で示すことで他者に影響を与えると説く。白洲の生き方はまさにその典型であり、周囲に迎合することなく、しかし礼節を欠かずに「一本の線を通す」実践であった。
こうした「日常の規律が人格をつくる」という視点は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』における「習慣としての徳(hexis)」の概念とも響き合う。徳は突発的に発揮されるものではなく、日々の行為の積み重ねによって形成されるという考え方である。この点で思い起こされるのが、司馬遼太郎『坂の上の雲』に描かれた明治期の軍隊が重視した「操典」である。操典とは、兵士がいかなる状況でも迷わず行動できるよう、最小限かつ明確な規範を示した行動準則であり、司馬はそれを“身体化された規律”として描いた。規範とは外から押しつけられるものではなく、反復によって内面化され、人格の一部となる。白洲のプリンシプルも、まさにこの操典と同じ構造を持つ。彼の判断や振る舞いは、特別な場面で急に発揮されたものではなく、日常の所作や生活の律し方の延長線上にあった。生活が弛緩すれば、大切な局面での判断力や言葉の重さは揺らぐ。日々の手入れが、いざという場面の背骨になるということだ。
来週の日曜日、信濃毎日新聞が主催する「人生100年キャリア」の講演会*1で私は、まさにこの点をお伝えしたいと考えている。人生100年時代において、自分自身のキャリアを牽引するリーダーシップとは、外部環境に振り回されるのではなく、自らのプリンシプルを軸に立ち居振る舞う力である。キャリアには本来「アップ」も「ダウン」もない。あるのは、どのように生きるか、どの原理原則で判断するか、どんな価値を生み、誰に貢献するかという“生の質”の問題である。キャリアとは肩書きや年収の増減では測れず、むしろ平凡な日常において、いかに「よく生きるか」を積み重ねるかで決まっていく。白洲が示したように、日々の所作の中に一本の「実線」を通すことこそが、長い人生を自ら牽引するリーダーシップの核になる。
キャリアの質量は、派手な転機ではなく、日々の判断、言葉の選び方、他者への礼節、自分との約束を守る姿勢といった“習慣としての徳”の積み重ねによって重厚になっていく。他者の視線に引かれる“点線”ではなく、自ら引いた「実線」を持つこと。それが、長いキャリアを自分の手で牽引する力となる。白洲の足跡を辿ると、その当たり前のことが、いっそうくっきりと見えてくる。
この週末は、書棚から取り出した白洲次郎氏や白洲正子氏の書籍を、松本の地酒──柔らかな旨味が静かに広がる「酔哉」や、凛とした透明感を湛える「大信州」を片手に読み進めようと思う。頁を繰るたび、暮らしの細部に一本の「実線」が通っているかどうかを、静かに点検しながら。
今日一日が良い一日となりますように、悲しみと困難、不安に向き合っている方に希望がありますように。良い週末をお過ごしください。新しく始まる一週間が皆様にとって豊かな一週間でありますように。
2026年4月10日
*1 松本市で行う講演会のご案内
日時:4月19日(日)13:30
場所:信毎メディアガーデン(松本市)
https://nano.shinmai.co.jp/enjoy/recommend/ticket/87936/
テーマ:講演会「人生100年時代をどう生きるか」
※事前の登録が必要とのことです。
お話しする内容は、
下記が私が大学で行っている講義の以下が紹介記事が主なメッセージになります。
https://www.asahi.com/thinkcampus/pr_gu_5/
(コラム週報のバックナンバー)
https://mcken.co.jp/category/weekly-column/
(e-learningの情報 人事やキャリアに関する講座)
https://mcken.co.jp/e-learning/
