目白からの便り

紀行 京都 その2 龍安寺を訪ねて 石庭 15個の石

竜安寺の石庭は有名であるが、この庭にはいくつの石が並べられているのかということも気にかかる。書院の入り口でパンフレットを渡され、履物を右側の下足入れに置き書院の奥へと進む。入り口から左側に石庭が広がる。パンフレットでは15個と記されているが、14個までは数えることができたが、あと一個が探せずにいた。

ちょうど石庭の入り口に、視力が不自由な方用の石庭の模型がおかれていた。この模型をよくよく眺めていると、ちゃんと15個の石が並んで配置されていた。模型の記憶をたどり、もう一度石庭に引き返し、記憶した石の位置を思い返しながら、石庭を眺めると確かに見過ごしていた一番右端の石の塊の中に埋もれるように薄く、小さく表面を表していた石を確認することができた。

それぞれの石の配置と大きなコンビネーションの絶妙なバランスにより、この庭の価値が高まる。何度も見返さないと、その存在すらも気づかいない石であっても石庭全体の機能を支えている。

人事屋の私にとって、こうして石庭を眺めていると組織における人材配置でも同じことかと重なってしまう。大きさや配置の位置により、その存在を圧倒的な露出度で顕示する石もあれば、小さく、支える石もある。その石自身が持っている価値自体よりも置かれた場所であるとか、周囲の石の大きさとのバランスで、見る人の視線を集約し、その存在自体を見過ごされてしまう。それでも15個の石があってはじめて成り立つのである。この龍安寺の石庭の圧倒的な価値は、誇らしげに、しかし静かに静寂の中で京都の山麓に近い場所にたたずみながらも、世界から多くの観光客を魅了し引き寄せている。

人の集団の組織もそれに近いものがある。それぞれ様々な資質や才能、経験を組み合わせて、はじめて組織としての総合的な力量に繋がっていく。スタープレーヤ的な存在は、たまたま、その配置と支える人材の組み合わせの結果でしかないかもしれない。その組織から離れ、異なる場所に置かれたならば、同じような存在にならないかもしれない。大きかろうと、小さかろうと、中央にいようと、端にいようと、そのように全体の偶然の組み合わせによって今の自分の価値があるのだと考えて与えられたその時々の責務を謙虚に果たし続けていくことが大切なのである。その積み重ねにより、なんとも言えない風合いと風格がにじみ出てくるものなのである。

裏庭に置かれたつくばいに刻まれた、「吾唯足知(ワレタダタルヲシル)」と合わせて、龍安寺は訪れると多くのことに気付かされる。

今日一日が良い一日となりますように、悲しみと困難、不安に向き合っている方に希望がありますように。良い週末をお過ごしください。新しく始まる一週間が皆様にとって豊かな一週間でありますように。

竹内上人

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