目白からの便り

中小企業の人的資本経営について その2

副題:「職能給」的賃金に基づくヒト基準の収益配分と人材投資の仕組み

私は人事の実務家としての経歴を歩み、日本企業における賃金体系に関わる仕事を多く担当してきた。日本の第二次大戦後の伝統的な賃金体系は「職能給」と言われる「ヒト」という人材に対して賃金が支払われる仕組みになっている。この反対の概念がジョブ型賃金といわれる「職務給」であり、これらは欧米で一般的な賃金体系の概念である。昨今、この「職能給」に対しての風当たりが強く、日本の経営者や人事担当者に、企業の成長を損なうリスクがある「職能給」から脱皮して、職務の内容を明確に記述した「職務給」に切り替えるべきであり、それぞれの仕事の需給バランスに応じた市場価格に適合した「賃金」を設計すべきだという空気が強くなってきている。

いくつかの改善要素はあるにしても、果たしてそれほど職能給的な戦後日本の賃金体系の原型を形成してきた人事のシステムは企業経営にとってこれからも弊害を招くものなのだろうかという疑問と、このまま、深い思慮を経ないまま、欧米的な職務給型に賃金体系の根本を変えてしまっていいのかという心配も持っている。二番煎じの、また模倣の賃金体系で、果たして国際的な市場において競合他社との競争優位を継続的に保つマネジメント仕様の希少性を維持し続けることができるのであろうか。世間の流行に屈して、経営者の親和性から遠く離れた人事システムを深い思慮なく手放してグリップ感がある経営ができるのであろうか。私ははとてもそのように思えないのである。

また、人的資本経営の観点から賃金体系を考察すると、職能給的な賃金の支払い方は、まさしくヒトを資本として定義し、現在時点での仕事の対価としての支払いという限定的なものではなく、将来のリターンの可能性に対する継続的な投資であるという点について、職能的賃金体系の思想が人的資本経営の側面を制度的に支えているのだと思えてならないのである。過去に対する労い、現在の貢献、将来への無前提での準備の連続性の中でヒトに投資をすることにより、感情を有するヒトから得られる将来のリターンの可能性を最大化するという発想に行き着く。そもそも、仕事、ジョブに値段をつけるという発想とは真逆の思想に基づいており、私が日本の人的資源管理の根底には人的資本経営のエッセンスが組み込まれていると考える拠り所になっている。

加えて、昨今の議論の対象になっている「同一労働・同一賃金」という考え方はその言葉としては正しいのだが、人事の実務家の経験では、仕事の出来栄えは、その仕事を担っている人によって異なるという実感値をもっている。人によってそれぞれの個別の仕事を担うための制約条件や将来の貢献の可能性が千差万別、異なるということである。そうなってくると仕事の価値というものは人に準拠する部分が大いにある。それは、働き手が各々有する個別の制約条件と機会の可能性を加味した「同一価値労働・同一賃金」システム(今野,2021)として言い換えてもよいのではないかと考える。

個々人のキャリアの視点で考察してみても仕事の範囲を詳細に限定しない職能給的人事システムは、働く人たちに自由度を付与するとともに、企業戦略や企業目標の延長線上、あるいは主として事業領域の枠内での暗黙の合意形成の中での「キャリア自律」を促す(竹内,2020)。職務範囲を制約されず、自由度が高いことにより、自己啓発的な学習活動も広範囲に活発になる。日本企業におけるキャリア自律の形成は、外部労働市場に人材を押し出すというより、企業組織内で新たな積極的な探索行動を誘引し、組織における経営資源を継承しつつ、市場環境変化に対応した価値増殖に貢献してきたのではないかと考える。

こうした組織の経営課題とシンクロした個々のキャリア形成の事例では、私が前職に在籍した企業も、もともとは腕時計会社であったのが、プリンターやプロジェクターの企業に変容してきたし、自動車産業でも、写真フィルの業界でも、鉄道会社でも長寿企業の多くが、自らの業態を市場環境の変化に応じてヒトを媒体として内部変革してきた。そうした新しい事業に携わる人が外部労働市場からの調達に完全に依存してきたかというと、そうではなく、本来の基軸事業の出身の技術部門や事務部門、販売部門、製造部門の働き手が従来の経験や知識、熟練をベースに企業外部からの人材の価値を最大化させてきたのである。

私は職務給的な考えを否定するものではなく、その効力を最大限に現行の賃金体系の中に組み込むべきであると考えている一人でもある。人的資本経営を切り口とした経営改革の原点は、賃金体系で言えば収益の配分を個々の「仕事」に対して支払うのか、それとも利益を最大化するために行為を促す「人」に対して払うのかという発想の分岐にたどり着く。そしてどちらを選ぶか、どのように両者のバランスをとった賃金体系のポートフォリオをデザインするかは、中小企業のみならず日本の経営者にとって、世界市場において、決して真似できそうもない人的資本の活用方法により、独自の競争優位のポジショニングを再獲得する上で重要な分岐点でもある。(次週に続く)

今日一日が良い一日となりますように、悲しみと困難、不安に向き合っている方に希望がありますように。良い週末をお過ごしください。新しく始まる一週間が皆様にとって豊かな一週間でありますように。

2024年2月23日  竹内上人

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※現在連載中のコラムは、今年3月に発行予定の中部産業連盟機関紙『プログレス』寄稿文の原文

(今回のコラム全編での参考文献)
その1
石田光男『仕事の社会科学』(ミネルヴァ書房)2003年
その2
今野浩一郎『同一労働同一賃金を活かす人事管理』(日本経済新聞出版)2021年
竹内倫和『自律的キャリア形成態度と職務探索行動結果に関する因果モデル』(商学集志)2020年

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